[20] 保守大合同−この幻想の愚かさ 松本謙一 (前東京支部長)  2006-11-01 03:08
われわれ「新しい歴史教科書をつくる会」と,八木秀次君率いる「教育再生機構」が共同執筆で「扶桑社版歴史教科書」を造れ,という扶桑社要請の説明を先週半ば,小林会長から島崎支部長が受けた東京支部では今夕,幹事会が開かれ,その支部長報告を聴き,今後の支部としての対応を検討する.一夕では結論は出ないだろうが,現在最大の採択部数を確保している東京支部としては,その次期本の内容によっては現在の採択数すら確保に大きな影響が出る(たとえば,東京書籍本と大差無い内容となった場合,特徴が見えにくくなり,授業内容にユニークさを出そうとしている都立中高一貫校などでは採用されない可能性も出てくる)ので,運動の大幅後退は避けられなくなることから,島崎支部長も「自虐史観是正の灯火を守るため支部としてあらゆる行動の選択肢も排除せずに検討していきたい」としている.

この「つくる会」と「再生機構」の縁組みを「保守大合同の夢」の実現のように言う人もある.概して,この関係を遠巻きに見ている野次馬的な人ほど,その口調に熱が籠もる.

そのモーティヴェーションは私の分析するところでは次のいずれか,あるいはそのすべてにあるようだ.

1. 歴史教科書の内容など二の次で,保守陣営として無邪気に気勢を上がられれば,それで満足,という人.あるいはそういう勢力が活用したい人
2. 話題の二団体に小異を捨てさせ大同に着かせることで自分のフィクサーとしての実力を披瀝したい人,宥和論を説くことで自分の大人ぶりを演出したい人
3. 「つくる会」を立ち上げることで一躍保守論壇のスターとなった西尾,藤岡,両氏にジェラシーを持つ人.両氏の顔に泥をこすりつけ名声を貶めてみたい人

「3」などは「まさか」と思う人があるだろうが,存外男の方がつまらぬことで激しく嫉妬するものである.藤岡氏を例にとれば「北海道大学から東大に栄転し,共産党に籍を置いたこともあるのに歴史教科書問題で一躍保守論壇の有名人に.産経新聞,雑誌の「正論」に常任執筆者としての座を用意され…」というのを,大学時代から保守界大物指導者の弟子として雑巾掛けに励み,いろいろな政治団体でも20年も30年も地道に努力してきたのに不遇にも(と本人は思っている)いまだ同人雑誌にようやく原稿が載る程度がせいぜいの自慢,という「純血保守言論人」から見れば,そりゃー悔しい,面白くない,というのがある.実は私も30年近く,男の嫉妬,というものをつぶさに監察できる立場にあったので,そういう空気が手に取るように判る.実際,藤岡氏が日本共産党の党籍を実際より遙か後年,「つくる会」活動に入ってからのちまで秘密裏に保持していたという「公安調査庁情報」が八木君とその周辺から流布された事件(八木君は遂に,その情報が捏造されたものではない,という弁明をせずに−実際は,「できずに」会をあわただしく去っていった)でも藤岡氏の日共党歴にこだわったあたりに,単なる策謀ではない,「俺たち正統保守に陽が当たらないのに,なぜ左翼から移った藤岡ごときが…」という恨みにも似た感情が滲み出ているように私には見える.

詰まるところ,出版事情ではほぼ首都一極集中のこの国の論壇は右も左も狭いのである.席数が極めて限られているのである.その中で師弟,先輩後輩などの縁も絡み合いながら椅子取りゲームをやっているのが論壇の実相なのだ.たとえば保守論壇の大物にとって左翼論壇の大物はライバルではない.真のライバルは保守論壇で常に自分と名前が並ぶ隣の大物,パーティーで共に並んで杯を上げる同志なのだ.善意の天使のように合従を仲介する笑顔の蔭にもそれなりの生存競争の思惑があって当たり前なのである.

「教育再生機構」の中核となっているメンバーは西尾氏,藤岡氏のように「つくる会創立」に苦労した功労者に非礼の限りを尽くた上に,後足で砂を掛けてて去っていった人々である.こういう,社会人としての節度を平気で無視できる人々が己に恥じることなく「教育を再生する」というのは,まさにブラック・ジョークである.この構図こそ,戦後教育最大の間違いを浮き彫りにしている.何でも悪い教育は東京裁判の所為にすれば済む,というものではない.悪いのはこういう手合いを安易に褒めそやし,おだててきた老人たちでもある.

そして野合にも似た「大同団結」を被害者に強要する無責任.一方で強姦犯の肩を叩いて讃えながら,その強姦された若い女性に「お前が強姦された相手ともう一度二人でドライヴを楽しめないのはお前の心が狭い」と諭しているようなものである.

日本の保守知識層のおそらくトップ1%にして,この知覚の麻痺.戦後,マッカーサーやGHQに子供扱いされたのも宜なるかな,である.

やくざの世界ならば仲介役がまず組長を罵倒して飛び出した若い方に相応の挨拶をさせてから手打ちをさせるのがあたりまえだろう.知性トップの世界では「若い者はやりたい放題でいい.年寄りが我慢するのが当たり前だ」と手打ちを迫る.いま日本の保守論壇に一番欠けているものは任侠道ではないか?

さて,保守の外野席にも「保守のスターが綺羅星の如くに群れ集い左翼を撃ち平らげる様を見たい」と願望する人が結構多い.「それが国のためだ,と…」

しかし,限られた保守論壇指定席,お互いのテリトリーを争う論壇人に,所詮それは無理な相談なのである.

皆さんは水族館などで一つの水槽に色とりどりの魚が群舞しているのを見て,「ああ魚の世界は平和だなあ!きれいだなあ!」と思われるだろう.しかし実は魚類でも特に色鮮やかな魚ほど雌やテリトリーを巡って激しく争い,時には相手を殺すまで攻撃する性格のものが多いのである.南洋の珊瑚礁魚類などはほとんどがそうである.

実は何を隠そう,私の子供の頃からの趣味の一つは熱帯魚の飼育で,その飼育法の研究書も書いた事があるほど熱中した時期もあったから,まず熟知していると自慢できるのだが,あの水族館の水槽でそれぞれどの水槽にはどの種類とどの種類を組み合わせて入れるかはそれぞれ魚の性質を十分把握した上で慎重に決めていることで,ただ色の取り合わせだけで無造作に放り込んでいるのではないのだ.さらに,水槽に放ってしばらくはそれぞれの魚の行動を十分に監視して,それぞれの魚がきちんと餌を摂れているか,喧嘩で傷ついている個体はないか,見守る.もし組み合わせに無理があれば「仲良くしなきゃダメよー」などと呼びかけても魚には通じない,ただちに手網で引き上げて分離しなければ30分で相手を殺してしまうまで物陰で執拗な攻撃が行われる.

こういうアレンジ作業を「タンクメイティング」というのだが,これの上手い下手が熱帯魚飼育の勘所なのだ.そして喧嘩をしない種類どうしを上手に組み合わせた水槽を連ねることで水族館は魚の楽園を演出しているのである.

保守運動も私にはまるきり熱帯魚飼育と同じに見える.何もかも一つの水槽に放り込んで,喧嘩しようが殺し合おうが眼をつむって「保守大同団結」の美名を強要するのではなく,棲み分けを上手にアレンジした水槽を並べていくことで,それぞれの水槽ごとのスターを傷つけず,活き活きと泳がせる.これができれば,そのときにこそ初めて生彩のある「保守論壇のスター,夢の豪華アルバム」が実現するだろう.

いま「つくる会」を巡る動きについていえば,訳知り顔の強姦讃美ほど当事者に残酷なものは無いことを保守論壇の最高識者たちは知るべきである.敢えて対立を増殖することで肥大しようとする「再生機構」の意地汚さは保守の恥と思わなくてはならない.このところの保守論壇,安倍政権誕生に浮き足立って,すこーし美学が欠けているのではないか?
 

[19] 「濃霧の中の扶桑社縁談」 松本謙一 (前東京支部長)  2006-11-01 02:52
一昨日,すなわち10月28日の評議員会で次期教科書作成の「対扶桑社問題」に関して小林会長より種々ご説明いただいた.この会議の位置づけはもともと「その場で何かを決める」というものではなく,理事会に各自意見を申し述べて各理事の参考にしてもらう,という性格なので,理事会を代表しての会長,事務局を代表しての事務局長が一応現況を説明し,そのあと時間一杯,各評議員がバラバラに意見陳述し,あるいは質問し,それを基にまた意見を出す,それを出席理事各位が聴く,という具合になる.

今回もそのスタイルだったが討議の内容は2時間半,すべて「対扶桑社問題」に集中という,評議会始まって以来最高密度の議論となった.評議員の出席者は自分の意見発表は控えて議事進行に務める議長を含め,今回は8名.その中で過半数から異口同音に発せられた質問,疑問は「教育再生機構が教科書製作に参加したいという話は分かるが,だからといって,なぜ当会がそれと共同しなければいけないのか,その積極的理由が解らない」というものだった.これは批判ではなく,仮にでも「つくる会」サイドに立ってみれば,大方の人が抱くであろう実に率直な感想だろうと思う.

会長の御説明によれば,扶桑社の担当編集者M氏が昨年末以来,全国諸方の教育委員会や校長,教師の間を廻って,先回「扶桑社本」を採択できなかった理由を聴取してまわったのだそうである.それによって,どこを直せば採択がたちまち増やせるか,その的確な要点が掴めたので,それに沿った次回教科書に着手するため,執筆陣を入れ換えたい,という結論に達したものであり,今回の「教育再生機構」との共同執筆への提案はそのため,という.

しかし,これも編集者歴39年の私にはどうも判らない話だ.

たとえば記事の配列,タイトルの付け方,用字などテクニカルな部分を修正するなら筆者ではなく,それは主として編集者の仕事であって(同業の私から見れば,あの本は編集者を替えただけでさらに格段と良くなる),そのためにわざわざ執筆陣を大きく替えるなど,すべてが一からやり直しになり,経営的にもまったく無駄なことである.(在来の旧版から新版への改訂でもそんなことはしていない)

一方,半数にも及ぶ筆者を別な(八木君いうところの「朝日新聞に批判されない」)史観のグループに入れ替え,基本的な骨格,歴史観を変えてしまえば,それはもはや「つくる会」の理念を基調とした「新しい歴史教科書」ではなくなってしまう.極めて曖昧な性格の,いってみればベテランの東京書籍や帝国書院本と差別化できない教科書になって,それでは後発で専門営業担当者も教育界へのパイプも格段に少ない扶桑社にはますます採択戦が不利になるのは目に見えている.「普通の教科書出版社」になった扶桑社に勝ち目は無い.

かの代表者が「安倍総理のブレインといわれる」ことに別の期待(いまや大分怪しくなってきたが)を掛ける以外には,扶桑社の経営ニーズとして,「つくる会」に強いてまで「教育再生機構」と共同させねばならない理由がどうも見えないのだ.

わが会の中にさえ,採択率がわずかに終わったことで扶桑社への負い目を口にする人があるが,実は「歴史教科書問題の立て役者」として朝日,毎日からNHKまでが「扶桑社本」と書き,放送する,その「サブミナル効果」たるや広告宣伝費に換算したら電通,博報堂もうらやむほどの絶大さなのである.

それで中国,韓国が問題にしようが,実は一般大衆は,その問題の中身などそれほど覚えず,頭の隅に留まるのは社名だけなのである.(それが証拠にかの銭ゲバのホリエモンですらフジ・グループ買収劇の冒頭に「歴史教科書なんて作るよりも」と語ったのは皆さんのご記憶にあろう.ということは,彼の頭の中にさえ「扶桑社」といえば検索のキー・ワードは「歴史教科書」なのだ)

事実,時代が昭和から平成に変わった頃,私はちょっとフジテレビ,扶桑社と関係した仕事をしたことがあったが,その当時の扶桑社の世間イメージは「タレント本と若年女性情報誌の専門出版社」であった.それを「なかなかしっかりした思想系の出版も手掛ける総合出版社」というイメージに一変させたのは誰あろう西尾幹二先生のベストセラー,「国民の歴史」であり,「新しい歴史教科書」とその関連本である.隠れた広告宣伝効果まで含めた総合収支でいうならば,きっと朝日グループの切歯扼腕するところなのだ.

経営的には扶桑社にとって採択冊数が現在の5000部から,仮に一気に10倍になったところで,売り上げにして年間3,000万円に届くかどうか程度の増収であるから,朝日,毎日が「批判しなくなる」ことの宣伝効果減衰と吊り較べると,おそらく大したことではないだろう.(テレビならばキャンペーン広告に起用した清純タレントが一人,不倫発覚でこけたら軽くパーの金額範囲)

かように扶桑社の全体経営からすれば従来の当会との枠組みを予測不能のリスクを侵してまで大きく変えることに,大きなメリットは考えられないのである.出版不況の折り,目先の売り上げのみを考える堅実路線が絶対必要,ということならば,見本本提出など,文部科学省にとかく金の掛かる規程を課せられる教科書など,そもそも「つくる会だ,再生機構だ」といってまた新たな軋轢を生む前に撤退した方が賢明だ.

どうも今回の強引とも感じられる縁談を持ってきた扶桑社の経営面からの意図が,私には理解できない.

もっとも,来年で丸40年,その世界に居ることになる私もそうだが,本の編集者というのはかなり「職人気質」のところがあって,組織の中にあってさえ個人的な想い,こだわりが強く,編集者のこだわり=必ずしもその出版社のスタンス,ともいえない.一連のプロジェクトととして任されている場合はなおさらである.

結局,会長としてはわれわれ評議員に相当踏み込んだところまで説明はされたと思うが,それでもなお「だからといって何故,当会が,あのクーデター紛いの騒動の末に後足で砂を掛けるように出ていき,いまだに一片の謝罪もしない人たちが率いる教育再生機構との共同執筆に一方的に応じなければならないのか」という合理的な理解は大方の出席者が掴めなかったのではないだろうか?

敢えて想像すれば,自分でいうのも何だが,本造りというのは技術と観念の入り交じる,堅気の衆には一目で理解するのが難しい世界であり,それを逆手にとれば,編集者は専門用語をずらずら並べて素人衆を煙に巻くことさえもできる.会長とて本の編集という世界のプロでいらっしゃるわけではないから,ベテラン編集者が持ち出す「本の改訂」ということになると「雲を掴むような話」になる…その点があれば不得要領もある程度やむを得ないが…

私と三多摩支部長でもある渡辺市議が帰宅後,電話で確認したこの日の共通印象としては「扶桑社ペース,再生機構ペースで事を急ぐことなく,話に乗らない選択も含めてさらに理事会で十分揉め,というのが本日の評議員会大方の空気,というところですか,ねー」ということになったのだが,会長に縷々いただいた御説明のあとも「向こうからお願いに来た,というわけでもないのに,再生機構と共同で教科書をつくらなければいけない,というわれわれ側の必要性は全く見えないんだよねー」と,深い霧でも覗いているような(実際,お互い電話を切るタイミングすら掴めない)話に終始したのであった.

[18] 「定礎」ということ 松本謙一(前東京支部長)  2006-10-28 10:32
本日は午後から「第6回評議会」である.「出席する者は『つくる会』活動に対する意見と提言」を持ってこい,との宿題付きである.ボランティアである評議員には日当は出ないが毎回会場までの交通費は実費が支給される.自宅から会場まで片道1,000円に満たない私は全メンバー中,最も安上がりな評議員である.これだけは会に十分貢献したことは間違いない.

しかし,一方,これだけ事務局長を悩ませた支部長,評議員も会の歴史の中でまさに「空前絶後」だろう.世の中,なかなか両立はしないものだ.

「おまえはスッポン,マムシよりしつっこい(「ひつこい」の江戸言葉)筋言いだ!」とよく父親にいわれた.通った私立中学では「松本共産党」と綽名された.別にマルクス,レーニンを勉強していたからではなく,事ある毎に教師に理屈で逆らったからである.

同じ学院の高校では毎年全校生徒1650名の前で行う「校内弁論大会」で全体主義指向の校長とキリスト教の学校のくせに「俺は戦争でシナ人を何人斬った」などというのが自慢だと,先輩たちがビビっていた生活指導主任の教師を批判して2年連続優勝した.(もっともこの弁論大会は審査員が全員校長批判派の教師だったらしい)→→→余談だが…当時,戦場帰り自慢のこういう軽薄な教師がいたのも団塊の世代に「二将校百人斬り競争」も史実だろうと信じ込む裁判官や新聞記者を生んだ一因だろう.

3年生でいよいよ大学推薦という時期になり担任が勉強しない生徒たちを脅す積もりで「大学に行きたくない奴は手を挙げて見ろ!」と怒鳴ったので「ハーイ」と挙げると「松本!また!おまえは!」と言ったきり絶句された.あとで別室に呼ばれて「おまえなあ,どうせ,『訊かれたから正直に本心を言ったまでです』って言うんだろうが,頼むからおとなしく大学へ行ってくれよ.その代わり,入ったらすぐ辞めてもいいから…」といわれた.

この頃には授業に飽き飽きしていたが,それでも試験というと両眼の脇に眠気止めのサロメチール塗って張り切ってしまうので(まあ東京の三流大学付属だから全体の偏差値の程度も知れているが)学年10クラス550人の中でいつでも悪くても上位10位ぐらいまでには居たから学校も落とすに落とせなかった.
当時,他校受験者以外,推薦辞退というのは前例が無かったからである.こうしてクラブ活動が主で授業はそのための待ち時間,その間はいつも「合法的に?」教師をいびる方法ばかり考えていた.まさに一番悪質な教師の敵である.結局中高6年,反権力指向の江戸っ子には肌の合わない学校だったが,聖書の中の「礎(いしずえ)」という言葉だけは何故か,頭に残った.いちいちの用例は忘れたが「神の家の礎」とか,「主の御言葉を礎に据えよ」というように,あの学校ではしばしば「礎」という言葉が使われていた.

要するに「教義の根幹精神」,「精神的支柱」というようなことを象徴して「礎」と表現したのだろう.「礎を据える」ということは,ざっといえば「まず自らの立脚点をしっかり認識し,ぐらぐら動揺したり想い迷うな」という比喩であり,「神の定めたもうた礎を守れ」といえば「時代の誘惑や恫喝と闘え」という…まあ,さすが往時の聖書授業成績連続A記録保持者(この不信心者が意外でしょう)も最近では記憶が怪しいが,とにかく「礎」ということにやかましかった.

もちろん西洋近代建築でも「礎」というのは大切に考える.古いビルなどの脇を通ると御影石などに「定礎」という文字が刻んであるのがはめ込まれているのをいまだによく見る.あの石に刻んだ「定礎」という文字,この二週間ほど,しきりに脳裏に浮かぶのだ.

いうまでもなく,われらが誇りとして献身してきた歴史教科書運動,「新しい歴史教科書をつくる会」の「定礎」とは何か?に想いを巡らして,である.

八木君たちのクーデター的策動が吹き荒れていたこの春,西尾幹二初代会長としばしお話しした際,ふと西尾先生が私に言われた.「自分はこの運動を子供たちへの歴史教育のゆがみを回復する文化運動として誕生させたつもりであったのに,それがいつの間に生々しい政治運動に変わっていってしまった.今回のすべてはそこから始まっているように思う」

長時間の対話の中で不肖の教え子の耳に残った概略だから,どこまで先生のお言葉を正確に伝えているか,もしご意図とは異なるようならお詫びしなければならないが,このとき西尾先生のいわれた「文化運動」という立脚点こそ,まさにこの会の「定礎」ではないだろうか?

西尾先生の御発言は時にはかなり直截大胆であることから,これを批判される向き,嫌悪される向きも少なからずあることは承知しているが,あの,怪文書,内部告発めいた造反文書が乱れ飛び,新田君が一言隻句を敢えて拡大解釈して西尾先生はじめ諸先輩を攻撃していた時期,西尾先生は会の「定礎」は何だったか,を見つめておられた.それには,私は率直,「やはり西尾先生あればこそ,この運動は曲がりなりにも東京都立中高一貫校全校採択,杉並区採択をはじめ,ここまで来られたのだな」という感慨を持たせていただいた.

さて,いま扶桑社が当会に投げてきていると聞くボールに対してどう答えるか?という中で果たして理事会の議論,理事の心中に「この運動の定礎」は見据えられているのだろうか?

いわく「産経が見放す」「扶桑社が承知をしない」「産経や扶桑社に見放されたら誰が責任をとるつもりか!」「次回採択に教科書が出せなくなっても構わないのか」「子供たちに教科書が届かなくていいのか!」「会を潰しては日本の損失だ」等々…

しかし,その中には「子供たちを自虐史観教育から守るべし,という定礎に照らしていささかも恥じない教科書が造れるのか?」という視点がすっぽり抜けている=まさに政治運動の力学的視点のみで議論が交わされているようにしか私には見えない.

論点を整理してみよう.
1. われわれの共通認識としては,いまや自虐史観の総本山は朝日新聞である.
2. 八木秀次君は「自分たちが造る歴史教科書は朝日新聞にも批判されないものになろう」と表明した.
3. 八木秀次君は「教育再生機構」なる団体の代表である.
4. 扶桑社は「つくる会」に対して「教育再生機構」と共同で次回教科書をつくることを検討せよ,(事実上それ以外選択肢なし)と提示してきている.
5. 理事会は扶桑社要請に対し謝絶はいまだ決断しきれず.
6. もしこのまま扶桑社要請を受諾した場合,1〜4を連結すれば,次回検定に向けて出来上がるのは,「つくる会」自らが参加して造ったと宣伝される「自虐史観にまみれた歴史教科書」,という,ほとんど悪い冗談としか言いようのないものになる,と考えるのが当然の帰結であろう.

会員の皆さん.いかに岡崎久彦先生が間に立たれようとも,小田村四朗先生がお叱りになろうとも,桜井よし子先生が微笑みかけられようとも,住田社長が支援の絶対条件とおっしゃろうとも,「保守大団結」の美名の下に,そんな教科書を子供に押し付けることができますか?

子供はそれを学んで育つのですよ.「子供時代」はやり直せないのですよ.

われわれが自ら手を汚して送り出す教科書でこの国の歴史への暗い評価が子供たちの心に染み込むのですよ.それはあなたの責任ですよ.

日の本のやおろずの神々も御照覧あろう「つくる会」の「定礎」に鑑みて,

そんな没義道なこたあ,俺にゃ できねー.

(ああ,これで宿題,終わったな)
 

[17] 「つくる会」自沈処分も辞すべからず 松本謙一(前東京支部長・事務局の懇請により今のところまだ評議員)  2006-10-21 10:17
いま,「新しい歴史教科書」出版引き受け元の扶桑社に関して東京支部掲示板で「デジャヴ」氏ガ書かれているような事態は実際あるようだ.しかし,われわれがこの歴史教科書運動に結集したのは一新聞社の御用運動に参加するためでもなければ,一出版社の出版不況を乗り切る手助けをするためでもなかったはずだ.

ましてや,先に述べたような警察国家指向の八木君率いる「再生機構」と再合流や協力を進めようと言うのは言論の自由を死守すべき自由主義国家の言論人として絶対に乗ってはいけない悪魔のささやきである.

小林会長が会長就任以前に統一協会系の会合で挨拶したことを「米長」と名乗るおっさんがしきりに東京支部に絡んでいるが,芸者以上にお座敷の好き嫌いを言えないのが政治家と言論人稼業である.とにかく好き嫌いをいわず人の集まるところには顔を出し続けなければならない.それでなくては1票差に泣くことも現実だし言論人は言論人で,発表できる新聞や論壇雑誌のページ数は限られている.競争は自ずと熾烈だ.そういう世界を生きてきた小林氏にはそれも埋没しないための世過ぎだろうから,目くじらを立ててもしかたがないだろう.(それにしても,この「米長」なるおっさんも暇だねえ!よほど周りに相手にされないんだろうね.まあ,こうして毎晩のように機械に向かって悪態ついているうちに人生が終わってしまって寂しい葬式を迎えるんだろうけど)

しかし,会員の浄財とボランティア活動で成立している「新しい歴史教科書の会」の会長として挨拶されるとなると,話は別である.その場所,相手は当然,会の目的,現在に至る経過,ディテイルに至るまでの会の主張の延長線上に沿ったものでなくては,採択戦の最前線を闘う会員たちは困惑し,はては鼻白むばかりである.

それが小林氏が会長就任と同時,まだ会の実情把握も十分されたかどうか,という段階で八木君たちに旗揚げパーティーに出席を申し出て,しかも全面的に協力を惜しまないというどころか,「協力させて欲しい」と懇願ともとれる挨拶をされたのには,すくなくとも私の周辺の会員,すなわち東京支部の活動を事実上支えてきて下さった方々の多数が違和感を持った.もっとあけすけに言えば「激怒した」方もある.時期も時期,事の成り行きも成り行きだけに,採択戦に実際多大の時間,労力を提供し,しかも八木君たちに後足で砂を掛けられた思いの皆さんには当然だろう.

小林会長はいままで「つくる会」に格別のご縁があったわけではないから多分実感はお持ちでないだろうが,かの罪深き「河野談話」をはじめとする「純真な子供への教育を外交の犠牲にすることをためらわない」政府の姿勢,政治家,官僚の保身とその背後に蠢く「友好利権」へのアンチテーゼとして生まれたのが「新しい歴史教科書をつくる会」であれば,在野でフリーハンドを保つ姿勢こそふさわしいのである.

さてその後の三月ほど.八木君とその周囲で彼を担いだ人々の,政権に諸手を差し出して抱きつこうとした姿勢は見苦しいばかりだったし,ましてやそれを安倍氏に完膚無きまで身をかわされて振られた姿は言論界100年の嗤い物といっても過言ではないだろう.

さらには「振られた」と分かって,すぐさま,NHK慰安婦番組事件では安倍首相の天敵ともいうべき朝日新聞に泣きつく.(10月18日付朝日新聞)その程度に腰が軽い人間が一国の宰相のブレインを務めるというのは何とも朝日の忍び笑いが聞こえてくるようだ.実際,どこまで本当にブレインとして安倍さんに信用されているのか?そもそも本当のブレインならば軽々しく「安倍首相のブレイン」などと新聞に書かせるか?ブレインとはいわば黒子であり,本来そんな公然としたものではなかろう.

ちなみに私の亡父は安岡正篤氏のご家族と懇意で折に触れて安岡邸にお邪魔しては先生ともしばしば談笑してきていたが「歴代総理の指南役,という気振を寸毫も見せずに好々爺然としている.あれこそ真の大物だ」とつねづね感心していた.

さて,その「嗤いの種」集団といっしょに次の教科書を造れという話を小林会長が扶桑社から持ち帰ったらしい.まさにブラック・ユーモアとしか言いようのない話だが,理事会では何を期待してか,結構その気になっている人もいるようだ.

「このような運動は二度と創れないから,何があろうとも我慢をして,絶対に会を潰してはならない」という人もいる.

しかし,果たしてそうだろうか?所詮は人が造ったものである.時代がそれを必要とするときには必ずや故坂本多加雄氏のように身を捨てても立ち上がろうとする人は出てくるものだし,それが等しく沈黙してしまうほど,この国,この民族も落ちぶれ果ててはいないだろう.

八木君が朝日系の雑誌に滔々としゃべくった「朝日新聞が気に入る教科書」を扶桑社が造りたいのなら,それはそれでやらせればいいではないか.そもそも朝日は「産経のごとき三流新聞が自分のフィールドと自負する教育分野に手を突っ込んで来たこと」自体,プライドが許さないのだから,八木君と扶桑社の担当者が筆先を丸めたぐらいで採択の応援などするはずがない.これ一つを見ても八木君の世間を見る目がいかに自己肥大,権力妄想に曇っているか,甘いか!また嗤い物になるだけだろう.

朝日のお目こぼしにすがって扶桑社が造る教科書の採択率を数パーセント上げ,編集担当者の手柄にすることに会員の善意や熱意を投入して協力しようと理事会が考えるならば,それはもはや会員に対する裏切りを通り越して,詐欺である.犯罪である.

扶桑社もここに至っては,もう後戻りできない一線を超してしまっているだろう.あとは会の方が,会員の顔に対して八木君と扶桑社がいくら泥をこすりつけてもそれを我慢させて検定教科書出版にしがみつくか,扶桑社とは潔く袂を分かっても会員の名誉,運動の尊厳を守り通すか,いくら小手先の妥協を繰り返しても,遠からず行き着く先はそのいずれかしかないだろう.

日本海海戦において「艦隊をなるべく無傷でウラジオストックに入港させること,そしてそこには当然自分が乗っていること」に司令官ロジェストヴェンスキーがこだわったからこそ,ロシア艦隊は対馬沖で思い切った艦隊運動を取れない内に日本艦隊に撃滅された.司馬遼太郎氏はそう書いている.

いまや「つくる会」は対馬沖の東郷となるか,ロジェストヴェンスキーの道を選ぶか,の選択を迫られているのである.

私は,一旦検定教科書の出版という「ウラジオ遁入」を捨てても会の志操をいささかも濁らせるべきでない,と考える.さらにいえば,名前としての会自体を終わりにすることも躊躇すべきでない,とさえ思う.何をおいても守らなければならないのは「志操」であり,会員がこれを失ってしまえば死体と化した「つくる会」はこれを何とか食い物にしようとするハゲタカ政治ゴロたちの餌場になり果てるだけだろう.

航行不能となった軍艦は巨艦であればあるほど,確実に自沈処分にするのが古来からの伝統である.建造した手間暇を惜しむあまり敵の手にむざむざ渡してしまえばそれはたちまちに敵兵力の増強となってわが方に襲い来るからである.簡単な話「あの扶桑社版ですら,この点は認めている」という自虐史観援護の材料にされる危険を持つし,それを手柄に警察国家指向の人物が政界に羽ばたくことにでもなれば,自由日本の危機を招来しかねない.

失礼ながら余所から突然落下傘降下した現会長の会員間における求心力はまだゼロに等しい.もし小林氏が会長として会の歴史,歴史教科書運動の歴史に名を留めたいのならば,会としての扶桑社版教科書は自沈処分として,会長は艦と運命を共にするべきだ.「そこまでして歴史教科書の独立を守った会長」ということになれば,心ある会員は大いに評価するだろう.

そして会はもう一度,運動の骨格を「外務官僚,文部官僚,そして偏向報道独裁体制へのレジスタンス文化運動」と捉え直して「検定なんぞは糞食らえ」という気概を持つべきだ.そういう気概を持つ人だけが純粋な火種を後世に伝えて行くのだ.

今の時代,教科書ばかりが子供たちへのパイプではない.ネットもあればアングラ出版もある.「文科省御禁制 日本人の歴史」と名乗るぐらいレジスタンスとしての毒があっていい.マスコミに頼らず,ましてや官に頼らず,御政道の理非曲直を糺していく.そういう孤高を貫いてこそ真日本人の運動だ.

平成18年10月21日
 

[16] 「公安情報」を玩具にする八木君の危うさ 松本謙一(前東京支部長・事務局の懇請により今のところまだ評議員)  2006-10-21 10:14
「とにかく,いままでのいきさつはすべて忘れてもろうて理事会が一丸となる,2月の理事会以前に戻る,西尾センセにも会に復帰してもらう.これが近畿ブロックの決議,関西の知恵やあ!」と大阪支部副支部長の浅野氏(元評議員会議長)は大見得を切った.しかし,その後の新田君,内田君たちの理事会や関係各方面を引っかき回す行動には結局見て見ぬ振りを決め込んだ.出身はなにか産別組合の偉い人だったらしいが,この人の感覚の中には大時代の組合運動を采配した,表は大見栄,裏ではなれ合い,の駆け引きだけで,現実ゲリラまがいのクーデターには為す術もなかったのだ.

総会では執行部が会員に八木君たちの脱会に至った理事会紛糾の経過説明文書を会員に配布したところ,歴史教科書運動の先輩である小田村史朗氏が反対の声を上げて回収させたという.要するにご老人方は「知恵」とか何とか,理屈をつけても所詮自分の前でもめ事を見たくないだけなのである.そこには自ら事に当たる責任感もなければ,会設立以来実際にこの運動を支えてきた人への敬意もない.自らの権威,威光を皆の前で示してみたかっただけ,といわれても仕方がないだろう.

その結果が,産経新聞にあれほどの捏造記事を書かれながら,会として浄財やそれ以上に,二度と戻らない人生の時間を割いてもらった会員にきちんとした説明を果たしていない,まことに不誠実な状態のまま,あの事務局員まで巻き込んだクーデターを事実上封印してしまった.

理事会,執行部会にも諮らず,独演で封印してしまったのは小林会長である.7月の八木君の旗揚げパーティーに自ら手を挙げて出掛けていき,「つくる会も是非お手伝いさせていただきたい」というようなリップサーヴィスをしてきたのだから,これは誰が聴いても事実上の「八木クーデター封印宣言」である.

そのパーティーに何も予備知識無く参加した複数の地方会員が東京支部の親しい友人それぞれの散会後会って感想をもらしたところでは「まるで何だか八木先生が来年の参議院選挙に出馬する出陣式みたいで,挨拶をした人たちの何人かもその気で来ているのに驚いた」そうである.

その前後から八木君周辺からは安倍政権が成立すれば八木君は教育再生の国家プロジェクト担当筆頭になるのが確実,という噂話に始まって,「再生機構」が即安倍政権の国家プロジェクトに昇格するように臭わす記事が唐突に産経新聞の一面に出るまでになった.(これも東京支部掲示板にたびたび恫喝的な投稿を行って,その執拗さから逆探知されて身元が割れた某記者の筆だろう.この人物はまるで八木君のスポークスマンのように行動しているが,権威主義が横溢する文体の癖で少なくとも東京支部の実動幹部にはすぐ見破られてしまう)

しかしこの新聞を読んで,とっさに思ったね.「政権って,そんなに甘いかあ?」と…つい先頃まで,あの名高き(実態よりも遙かに)「つくる会」の会長を務めていた男を,中国に挨拶回りに行ったとはいえ,簡単に政権が重用できるはずはないだろう.それこそ,公明党も朝日新聞も黙ってはいまい.そんな危ない橋をたかが諮問委員会の人事ぐらいで政権初っぱなから渡るものか,ちょっとでも世間の難しさを知っている人間ならば首を傾げる方が普通だろう.
こんな与太記事を一面に載せるようになっては,辛口揃いのわが家が昭和20年代より4代に亘って愛読を続けてきた産経新聞もいよいよ焼きが廻ったな,と正直思った.

ところが,慰安婦に関する河野談話ではないが,そういう「甘言」にすぐ飛びついちゃう保守言論人,運動家っているんだね.小田村氏に一脈通じる日本の保守の甘さ,とでもいおうか?誰それはどこそこの市議会議員の席を割り当てられたらしい,とか,誰それは○○県の教育委員長に声が掛かっているとか,世間情報にはあまりチャンネルを持たない私のところまでそんな噂が聞こえてくる.

しかし蓋を開けてみたら安倍政権の教育再生会議,八木君を囲む人たちの期待は全くスカをくらいましたな.皆さん,すこし頭を冷やせ,という天の声でしょう.

まあ,八木君が来年の参議院選挙に出るのならば,それは八木君の御勝手である.しかし藤岡氏がファックスの返信の片隅に「ふざけるな」と書いただけで怯えられたような繊細なご家族をお持ちの八木君である.政治家になれば「ふざけるな」どころではない恫喝,嫌がらせ,偽情報は連日殺到しよう.その点は歳費と議員バッジが釣り換えならば大丈夫なのであろうか?

ただし,投票箱に向かうわれわれはもし彼が立候補するならば,忘れてはならない重大なことが一つある.あるいは心ある人は警鐘を乱打すべき,といってもよい.

それは,かの事務局長更迭内紛問題(私は事務局長問題以前から巧妙に仕組まれた西尾,藤岡排除のクーデターと確信しているが)の終盤で八木君たちが持ち出した「藤岡氏日本共産党党員歴秘匿の公安調査庁情報」なる怪情報の事である.

ご存知ない方に掻い摘んで説明すると,八木氏が親しい公安調査庁筋から「藤岡副会長が会創設後,第1回教科書採択の途中まで日本共産党の党員であり続けながら,その事実を隠していた」という情報を得た,というものだ.

しかし,そんなことは実際,当時「つくる会教科書排撃」の先頭に立った不破哲三書記長が承知するわけがないし,実際その攻撃の力の入り方は古参の会員ならばみんな覚えている.実際多くの理事たちが講演会専門で採択運動の最前線には全く出てこないのを藤岡氏一人が引っ張っていたのだから,日共にしてみれば百害あって一利無しの存在である.まあ,与太情報で,東京支部では「公安て,どこの公安?Made In Chinaじゃねーのか?」などと笑っていたが理事の中にさえ結構この話を真に受けた方があったようだ.

それだけ産経某記者も参加したことを自白したというこのクーデター工作は念が入っていたわけなのだが,ここで絶対看過してならないのは,八木君自らも得々としてこの「公安調査庁情報」の流布をおこなった,という事実である.

この際,藤岡氏自身の日共党歴の真偽は二の次である.(まあ,話に整合性がないから,それ自体取るに足らないが)問題は八木君たちが「公安調査庁情報である」と吹聴し,ファックスで理事や関係者に送達した行為である.

およそ自由社会において他人に関する事柄を「公安情報」「警察情報」と権威づけることが絶対に行ってはならない禁じ手である.社会で利害が相反する相手をおとしめるのに政治家が,役人が,マスコミが「公安情報」「警察情報」と銘打って相手を攻撃し始めたら,どうなるか?世の中はたちまちフランス革命当時の恐怖政治,20世紀社会主義国の歴史を血塗らした粛正の応酬に陥るか,現今の社会主義独裁国家がそうであるように,言論は厳しく統括,人民は常に監視されるような社会を現出する.あるいは憲兵政治による翼賛体制の登場となるだろう.

その,自由社会言論人としてあるまじき行動,保守であるからこそなおさら押さえなければならない行動,すなわち「みだりに公安調査庁や警察の名をもてあそぶ行為」に八木君は自ら平然と手を染めたのである.

そして遂に八木君はこの重大問題に対して情報入手の真偽など,一片の弁明も理事会にも会員にもおこなうことなく,あとを濁してあわただしく「つくる会」を飛び去っていった.そして,堂々と「再生機構」を立ち上げた,ということはこの「公安調査庁情報」を使ったことに「失敗」という反省は或いはあっても,「言論人として,教育者として禁じ手を使ってしまった」という自責の念は全く無いのだろう.彼にあるのはただ飽くなき権力志向と強引な上昇志向なのだろうか?そのあたりに元ライヴ・ドアの堀江君と共通したものを感じる.

いずれにしてもこのように自由言論社会の禁じ手を平然と使ってしまう人物を政権の側に置くのは極めて危険である.次には「内閣調査室情報」「首相補佐官情報」まで,ライバルや批判者の追い落としに持ち出しかねない.

私が「つくる会」の東京支部長をほぼ3期6年近く務めて痛感したのは,「歴史教科書運動」を始め,保守再生運動は諸刃の剣である,ということだった.
担ぐ相手を誤ると,左の全体主義から右の全体主義に一気に振り子が振れてしまう危険を内在していることを,われわれは常に自戒しつつ,この運動に取り組まなければ危ない.

ところが現実には人材の少なさからか,永年の左翼への怨念か,「保守言論人」を見ると,その人の本質に敢えて目をつぶってでも,これを担ごうとする癖がわれわれの運動の中にある.たとえは上品でないが,まさに「糞味噌いっしょ」なのである.

目先のメリット,切迫度に目を奪われると必ずどこからともなく魔性の笛吹が現れる.しかし,その笛の音はネズミも子供たちも共に幻惑して水底に葬ってしまう危険がある.笛吹の本性をわれわれはよほど十分見極める必要があるのだ.

それにしても産経も悪球につり込まれて空振りを続けるのは,内実がよほど追い込まれているのだろうか?泉下の司馬遼太郎氏も顔をしかめているのではないか.
 

[14] 「セイロン茶話」を閉鎖致します 管理人代行  2006-08-07 19:22
新しい執行部体制になりましたので、前東京支部長の松本謙一氏のセイロン茶話は中止致します。
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